2019年11月05日

教会の衰退についてF 教会の衰退と「主の十字架」


前回までの記事は特に旧約の歴史に視点をフォーカスした。

新約の視点から、現代の教会史的状況を顧みることも可能だし、おおいに意味があることだ。

楽観的予測としては、大規模な罪の自覚や悔い改めがなされて、教派・教団としての滅びが延期されるか、

これまでの路線とは異なる信仰的な歴史ステージが形成され、現代の「バビロン捕囚」が回避される、ということもあるかもしれない。

「バビロン捕囚はあくまで旧約でのことで、新約にはそれに該当するものはない」という反論もありうる。

ところで、ユダの人々はバビロン捕囚を味わうことで、70年の歳月が流れたあと、イスラエルの地に戻ってきて、「第二神殿」での礼拝を中心として国を再興した。

つまり、「滅びを通して復活」に至ったことになる。

このことから、「バビロン捕囚と帰還、国の再興」は新約においては主イエス・キリストの「十字架と復活」の予型であると解釈することができる。

主イエスが十字架につけられたことが「バビロン捕囚による滅び」であり、復活されたことが「帰還と民の再興」を意味している。

主イエスにおいて、旧約の「バビロン捕囚と帰還」は、「十字架と復活」という形で「完成・成就」を見た、と言える。

それでは、両者の間にはなんらかの差異があるのだろうか。

主イエスが旧約の成就であるとするなら、主イエスの十字架と復活は「バビロン捕囚と帰還」以上のものだと考えなくてはならない。

旧約の限界を、主イエスはどのように乗り越えてくださっているのか。

いくつかの点を挙げてみたい。

1 バビロン捕囚では「民」が滅びたが、主イエスは「ご自分」に滅びを担われた。

主イエスは罪の結果である「滅び」をご自身に引き受けられ、これを自らの死をもって克服された。主イエスは教会が滅びることがないように、ご自分がその滅びを代理として担われた。

2 バビロン捕囚から帰還までは「70年」だが、主イエスは「3日目」で復活された。

バビロン捕囚から第二神殿の再建、イスラエルの民の再興までも視野に入れると、70年以上の月日が経過している。

しかし、主イエスは三日目に復活された。このことの意味は主イエスによる「ご自分の身体」の復活は、バビロン捕囚からの帰還を圧倒的に凌駕したものであり、

主イエスは御心なら教会をそれほどの力でよみがえらせることができる力をお持ちであることを示している(と解釈できる)。

3 帰還による民の再興にはなお「政治的敗北」が伴ったが、主イエスは復活において「霊的な勝利者」であられる。

イスラエルの民は第二神殿を再興したのちも、マカベア戦争などをへて結局のところ「ローマ帝国への隷属」という状況となり、政治的には支配下におかれる厳しさは変わらなかった。

しかし主イエスは復活において人間の原罪と悪魔に勝利され、そのようなお方として世界中で宣べ伝えられ、国境を越えて神の民が形成されていった。

他にもいろいろあるだろうが、とにかく主イエスの十字架と復活は「バビロン捕囚と帰還」以上の、それを完成・成就の域にもたらした御業である、ということだ。

つまり、主イエスを信じる教会には、イスラエルの民にまさるイエス・キリストという希望があると考えるべきであるのが、新約聖書から導かれる結論だろう。

以上の点から、「教会の衰退」について描くと以下のようなことが言いうるのではないかと思われる。

1 教会は衰退しているが、その理由は「旧約の成就者イエス・キリストへの不信仰」であり、それは偶像崇拝以上に深刻なものだが、それでもなお主イエスの愛により担われているものである。

「自分たちの罪を真剣に受けとめるなら、本当はもっともっと衰退していて当然である」のが、主イエスによって食い止められていると考えるべき。

そのような状態に甘んじている私たちであることを主の御前に恥じて、主に立ち返ることが求められている。

2 教会は衰退しているが、自らの罪を深刻に受け止め、悔い改めて主イエスに立ち返るなら、旧約の民以上の仕方において、「回復・更新」される望みがある。

キリストは旧約の成就者であるから、旧約を超える形において教会をお救いくださる可能性に溢れている。

3 教会は衰退しているが、相対的に「衰退していない教会や教派」も存在しており、そういった教会や教派が主イエスへの真実と愛を貫くことで、そちらの方に歴史的なバトンが受け渡され、キリスト教の「主流派」として神の民を形成していくことも十分に考えられる。

パウロや使徒たちが伝道した多くの教会は現代では存在していないが、その信仰的遺産が他の教会、教派に受け継がれているように、特定の教会・教派が滅びても、主イエスを信じる民全体が滅びることはありえない。

ある教派に本当の「真理」があるなら、その教派が真理を忘却して滅びるとき、その真理は他教派・他の教会が継承して次の時代を、新たな地域において築くのだ。

以上の点が、旧約的視点をふまえて、新約にまで視野を広げたときに言えることであると思われる。

結局のところ、問われているのは、「わたしやあなた」なのだ。

「どこかの教会」や「どこかの牧師」のことではない。

「わたしやあなた」が本当にイエス・キリストを信じるなら、教会の衰退など恐れる理由はただの一つもない。

「わたしやあなた」が悔い改めることが、主イエスの御心なのだ。

「教会の衰退」とは、「他の誰か」のことではなく、「わたしやあなた」の主イエスへの信仰や献身の衰退であり、そこが「わたし自身の課題」として向き合う絶対的に重要な点であることを覚えたい。




posted by Theophylos at 18:41| 教会の衰退について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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